きみと私と、へんてこ宇宙人




 私は、人と付き合うのが苦手だ。

 人前に出ると、声が出なくなってしまう。言葉が出ない。手がじわじわと濡れる。心臓を波打つ鼓動が、私の体を揺らす。そんな風に体全体がおかしくなって、おかしなことを口走ってしまう。

 口を開いて息を吸って、お腹に力を入れて。そして喉を鳴らして、舌を動かす。たったそれだけのことなのだ。私だって、理屈では分かっている。誰も見ていない時は上手く行くはずなのに、私は人とお話しすることが出来なかった。

 どうして、人は喋るのだろう。そう思うことがよくあった。

 クラスメイトたちが、休み時間に楽しそうに笑ってお喋りをする。お気に入りのCDとか、おもしろかった本のこととか、昨日見たテレビ番組のことを身振り手振りを交えて、一生懸命喋り合う。そういう、ごくありふれたクラスの日常を、私は一人外側で眺めていた。「話す」という能力を持ってない人は、内側のわっかの中に入れないのだ。無理やり入ろうとすると、体中に電流がびりびり流れて、死んでしまうのだ。

 そうして、外から見える日常の風景は、私にはへんてこに映った。滑稽だった。楽しそうにお喋りをするクラスメイトたちは、食虫植物が食料の虫を奪い合っているように見えた。むしゃむしゃと自分たちのごちそうを咀嚼するのである。きっとあれは、地球の生き物ではない。宇宙からやってきた何かに違いない。

 そう、クラスメイトたちは宇宙人なのだ。

 私は、他の星に取り残された、たった一人の地球人なのだ。他星の砂漠を一人延々と彷徨っているのだ。クラスメイトも、先生たちも、街行くサラリーマンたちも、みんな宇宙人なのだ。そうして、一人取り残されて戸惑う私を可笑しそうに笑うのである。言わば、私はサーカス用に連れてこられたサルなのである。


 高校に入学してからも、私を取り巻く環境は変わらなかった。中学の時のそれと、一緒だった。

 私は宇宙人たちの輪に入ることが出来ず、一人ぼっちでいた。

 入学したばかりの頃は、隣に座った女の子が私に話しかけてくることもあった。椅子を私の方に向けて、私の机の上で頬杖をつく。ちょっとばかりぎこちない微笑みを私に向けて、私と話をしようとする。けれども、そうして私の内側に入ろうとするクラスメイトたちを、私は直視できなかった。心臓がまた、私に警報を鳴らす。頭の中から言葉が消えていく。「宇宙人が、攻め込んできてるぞ」。そんな風に危険信号が体中を巡った。

「あの!ご、ごめんなさい……」

 そんな風に言って、私は立ち上がって。彼女に向かって大げさにお辞儀をして。私は教室を出て、トイレの方に駆けこんでしまった。それが私に出来る、精一杯だった。

 私の様子を見て、彼女は困り顔で首を傾げた。

 そんなことが四月中に何度かあった。何人かのクラスメイトたちが、私に話しかけたり、私のことを尋ねたりした。けれども、いつも同じように私は口をもごもごさせて、上手く喋ることが出来なくて。教室を出てトイレへと駆けこんだのである。きっと、クラスメイトたちは私のことを「話しかけるとトイレに行くたくなる変な病気にかかった可哀想な子」と思い込んだに違いない。頭のおかしな子だ、と。

 しかし、五月に入ると、私に話しかけようとするクラスメイトたちはいなくなった。クラスの中で、仲の良い人たちがなんとなくあの輪っかを作り始めている。私には、中学のときと同じ、あの静けさが訪れた。私は胸を撫で下ろして、息をついた。そしてまた、私は宇宙人たちの輪っかに入り損ねたのだな、ということを実感した。

 またいつもと同じ、学校と授業をやり過ごすだけの私の毎日が続いていたのである。


 *


 ゴールデンウィークを終えた五月中旬でしょうか。

 授業をすべて終えた放課後の教室で、私は鞄に教科書を詰めていた。紺の不格好な学校指定の鞄である。でも、私はこれしか鞄を持っていなかった。おしゃれとか、そういうのが私にはよく分からなかった。ぎゅうぎゅう詰めになった鞄を持ち上げて、手のひらが真っ赤になるのを感じながら、私は教室を出た。

 廊下の窓から入る西日と、それの作る手すりの影を一つ一つ目で追いながら。私は灰色の廊下の上をずんずんと歩く。校庭の方から部活動をする生徒たちの掛け声が遠くに聞こえる。あんなに騒がしかった校舎の中に、解き放たれた静寂が下りていた。

 少しだけ、心が踊っていたと思う。

 美術準備室を覗いて行くことにしたのだ。

 今日、美術の先生に美術準備室の話を聞いた。授業で余った画材や美術書、画集などを準備室に置いておくので、興味のある人は入って自由に借りてもいいとのことだった。ただし、管理は自分たちでしっかりやること。盗難など、あまりにひどい場合は貸し出しをやめます。そんなことを先生は付け加えた。

 私には、これといった趣味がなかった。

 きっと趣味を勧めてくれる大人たちや、友人たちが私の周りにいなかったからだと思う。何か新しいことを始めるきっかけがつかめなかったのだ。そして、何より私は不器用でどんくさかった。どんなことをやらせても、人一倍時間がかかった。何かを人より上手く出来た試しがなかった。だから、何か素敵なことを始める気にもならなかったのだと思う。

 でも、私は絵が好きだった。

 中学の美術の先生が、私の描く絵を褒めてくれた。「あら、ヨシノさん。貴女のは綺麗ね。この絵に、表情があるみたい」。授業中、私の絵を手にとって、微笑んでそう、先生は言った。褒められてない私は、途端に胸がじくじく熱くなるのが分かった。訳が分からなくて、泣きだしそうになった。一度だけ頷いて、私は絵を返してもらった。それ以来、絵は好きだ。

 歩きながら、スケッチブックのことを考える。高校生になって、私は一冊のスケッチブックを買った。休みの日や放課後に持ち出して、絵を描く。世界の空気ってやつを、一枚の平面の中に切り取る。私が何か毎日好きなことをしているとすれば、たったそれだけだ。

 三階の一番奥の美術準備室に辿りついた。美術準備室は美術室の隣にある、小さな部屋だった。電気がついていないのを見ると、中には誰もいないようだった。私はほっと胸を撫で下ろす。もし中に誰かがいたらどうしよう、と考えていたのだ。準備室の扉を開けて中に入る。すると、むわっと油絵の具の匂いが私の鼻孔を掠めた。

 ガラス張りの棚がいくつか左に並んでいて、その中に画材が入っている。右の壁にはカルトンとイーゼルがいくつか立てかけられている。中央に木製の小さなテーブルがあった。奥の壁に小さな窓があって、通り抜ける風を受けてカーテンが靡いていた。まるで、芸術家の隠れ家みたいだ、と私は思った。

 棚の中を一つ一つ覗いて行く。色鉛筆や水彩絵の具や、私の使ったことのない画材がいっぱい入っている。これを自由に使っていいなんて、なんてことでしょう。飛び上がりそうなほどわくわくした。カラカラに乾いた砂漠に落ちた、一滴の水のような場所だった。きっとここは、地球人のためにとっておいてくれた、最後の秘密基地なのだ。私はそう、思うことにした。

 一番奥の棚を見ていると、そこにはいくつかの書籍が並んでいるのを見つけた。これが、噂の画集というやつですか。絵を描くのを仕事にしている人たちの作品がここに詰まっているのである。いつの間にか、私の心に充満していたわくわくはどきどきに変化していた。

――と。

 書籍の棚の一番奥に、他の書籍とは違うものが挟まっているのが見えた。私は、屈んで覗きこんでみた。どうやらノートらしい。手を伸ばして、私はそれを引っ張り出した。

 横書きの、ちょっと古臭い感じのするデザインの大学ノートだった。

 表紙には何も書かれていない。裏返して見たが、裏表紙にも何も書かれていなかった。表紙がちょっとだけくすんで黒ずんでいる。

(誰のだろう……)

 準備室を使っている生徒のものだろうか。それとも、先生のノートであろうか。中身を見ていいものなのか少し戸惑ったが、私はぱらぱらとページをめくってみた。すると、ページの合間からぱらっと一枚の紙片が落ちた。

 拾ってみると、切符だった。

 6年前の8月17日とその切符には印字してある。ここから少し離れた街にある駅の名前が書かれていた。誰かの大切な品なのかもしれない。なくしたら怒られるかもしれないと思い、なんとなく私はスカートのポケットにしまった。そして、手に持ったノートを一枚一枚めくってみた。

 ノートには、ほとんど何も書かれていなかった。ただ、最初のページの上の方にちっちゃく、へんてこなロケットの絵が書いてあった。あまりにも不格好で幼いその絵に、思わず笑みがこぼれた。なんだか、少しだけいたずらをしたくなった。私は、テーブルの前にあった小さなパイプ椅子に腰かけ、ペンケースを取り出してノートに落書きを始めた。

『エメラルドの宇宙人って見たことある?』

 ロケットの上に、鼻が三つある奇怪な生物を書きあげた私は、棚に入っていた色鉛筆で全身を緑色に塗ったくった。一気に気持ち悪い宇宙人の絵が出来上がった。何故かこっちを睨んでいる。夢に出てきて、毎晩私のことを追いかけまわしそうだ。そして、その下にそんな文章を書き連ねた。

 なんだかとても愉快だった。これを見る人がいたらどんな顔をするだろう。誰しも顔を歪めるに違いなかった。

 そして、私はそのノートを元の場所にしまった。

 時計を見ると、もう午後4時を過ぎている。そろそろ帰ろうと思い、私は準備室を立ち去った。今日は家の用事があって、早く帰らなければならなかったことを突然思い出した。自然と歩く足が速くなる。少し小走りになりながら、学校の正門を出る。と、急いでいた私の鞄の取っ手が正門の角に引っ掛かった。

「あっ」

 重い鞄に振りまわされて、私は転倒してしまった。

 手をついて、私は起き上がる。ぶつけた足がぴりぴり痛む。幸い、すりむいてはいないようだった。制服についた汚れを払って、鞄を手にとった。

「あの、大丈夫ですか」

 正門前の交差点を通りがかった人に声を掛けられた。見上げると、大学生くらいの男の人が私の目の前に立っている。急に恥ずかしさと焦りがこみ上げてきて、緊張が私の体を支配した。他人を、直視できない。心臓がまた、ばくばく波打つのが感じられた。私はオーバーにお辞儀をして、重い鞄をぎゅっと握りしめて、走り出した。離れてから振り返ってみると、男の人は、私の走り去る姿を不思議そうな顔で見ていた。

 またやってしまった。いつも、こうなのだ。

 へんてこないたずらをするから、そのバチが当たったのだ。私はそう思った。


 *


 浮き足立っていた昨日の私とは違って、次の日の私の心境は複雑だった。

 昨日のことを思い出して、少しだけ心苦しさを感じていた。あれが誰かのノートだったとしたら、どうしよう。いけないことをしたんじゃないか。ノートの持ち主は、何者かのいたずらに腹を立てているに違いない。もしそうだとしたら、謝らなければならないだろう。でも、私のような人と会話もできない人間が、謝るなんてことを上手く出来るはずがなかった。

 黙っていれば、ばれないだろう。それも確かにそうだった。

 しかし、単純で頭の悪い私にはそんな狡猾なこと、出来そうな気がしない。「誰かが、私のノートに落書きをしました」。そんな風に誰かが名乗り出れば、私は平静を装っていられないだろう。すぐさま挙動不審になるに違いない。犯人が私であることはすぐにばれるであろう。「やっぱり、ヨシノさんだったのね」。そうやって、私は責め立てられるのだ。宇宙人たちがこぞって私を血祭りに上げるのだ。やがて訪れるかもしれない惨事を想像して、どうしようもない恐怖に身震いした。

 その申し訳なさと恐怖に板挟みのまま、一日を過ごしていた。

 授業の内容など、ちっとも頭に入らなかった。ただ、放課後になるのを、いまかいまかと待ち続けるだけだった。

 ビックバンが始まって地球が出来るまでぐらい長く感じられた授業が明けて、放課後になった。私は昨日と同じように、急いで教科書とノートとを鞄につめて、美術準備室に向かった。誰かに見られる前に消してしまえば問題ない。見付かってしまっていたら、頑張って謝ろう。私は、いつの間にかそんな風に決心していた。

 暗い廊下を、とつとつと歩く。今にも雨が零れ落ちてきそうだ。

 美術準備室は、昨日と同じように明りが消えていた。中に人はいないようだった。私は一つだけ、息をつく。

 中に入って、私は昨日の古臭いノートを棚から引っ張り出した。そして、表紙をめくった。

 それを見て、私は驚いた。

 陳腐な言い方になるかもしれないが、びっくりした。それと同時に、おかしな気分が込み上げてきた。私の頭の上を?マークが三つも四つも飛び交った。状況がよく飲み込めず、私は思わず首を傾げた。

『かわいい絵だね。君は宇宙人なの?』

 私の昨日のへんてこな絵とコメントの下に、私以外の誰かがそう、言葉を連ねていたのだ。

 内容から察するに、私への返信らしかった。なんだろうこれ。頭を抱えて考える。つまり、昨日私が落書きをした後、ノートを開いた人がいるということである。途端に私は恥ずかしくなった。無意識に、私は髪をかき上げた。髪先が乱れていないか、変な顔をしていないか、反射した窓を見て自分をチェックした。制服が乱れてないか、スカートがめくれあがっていないか、逐一確認した。そしてまた恥ずかしくなって、顔が紅潮してゆくのを感じた。

 心の中で「まじ、センス疑うんですけど。どう見てもかわいくねーよ」と唱えた。

 この人はどういうつもりなのだろうか。私の絵とコメントを面白がって返信をつけたのだろうか。それとも、犯人をおびき寄せて捕まえるためにこんな返信をつけたのだろうか。この人は、このノートの持ち主なのだろうか。詳細なことは、まったく分からなかった。しかし、あまりにも返信が間抜けだったので、私はさらに何かを書きたくなった。

『今この星で、地球人は私だけなのです。周りは宇宙人だらけです。』 

 そんな風に書き加えて、その下にうさぎの絵を描いた。何故うさぎなのか、自分でもよく分からなかった。描いていくうちにだんだん凝り始めてきて、かわいいお洋服を着せたり、かわいいリボンをあしらった。目やリボンやお洋服に色鉛筆で色を塗った。完成した絵の下に、「←わたし」という文字を書いた。何故うさぎなのか、やっぱりよく分からなかった。私は首を捻った。

『画集のいくつかを借りて行こうと思う。オススメがあったら教えて下さい。』

 結びに、私はそう記した。名前を書くべきだか迷ったが、もしかしたらこれは壮大な罠なのかもしれない。私を陥れるための緻密な計画なのかもしれない。そう思って、書くのはやめることにした。これならきっと、私だとばれるまい。そう思うとなんだか可笑しくて、私はくすくすと吹き出して笑った。

 ノートを閉じて、棚の一番奥――元あった場所へとしまった。

 棚の中から「M.C.エッシャー」と書かれた奇妙な絵ばかり載っている画集を見つけ、私はそれを借りていくことにした。


 先程とはうってかわって、私の心は晴れ晴れとしていた。

 怒られるかもしれない、という恐怖が解消されたからかもしれない。けれども、それだけではなくて。「楽しい」という感情が私の心のどこかに見て取れた。たった一人取り残された地球人の私にとって、それは初めて見る宝物のように煌めいていた。人類は大きな一歩を踏み出したのだ。私しかいないけど。

 準備室を出て、廊下を眺める。

 傘を、持って帰らなくちゃ。

 窓の向こうの空を眺めながら、私はそう心の中で呟いた。べっとり灰色に塗ったくられた空が、鬱陶しく沈澱している。狭くて低くて。今にも天空が落ちて来そうだった。けれども、そのときの私には、それがそれほど悪いものには見えなかった。


 *


 それからというものの。私と見知らぬ誰かのへんてこな交信は、しばらく続いた。

 毎日、放課後になっては美術準備室に赴いて、私はあの古臭い大学ノートに落書きをした。美術準備室に入って、一番奥の棚にしまってあるノートを引っ張り出す。ノートの表紙をめくって、中身を確認する。すると、必ず私の落書きの下に何者かの返信が書いてあるのだった。それを見るたびに、腹がよじれるような思いをして。私は、くすくすと笑い出すのだった。

 最初は一行足らずだったやりとりは、次第に数行に渡るようになった。

 交信を始めた頃は、私は恐る恐る文章を書き連ねていた。私に返信を寄こす相手のことが、いまいち掴めなかったからだ。油断を見せてはいけないと思い、「子供のころから少林寺拳法を習っている」とか「林間学校の最中、襲いにきた熊を蹴りで撃退したことがある」とか「本当はとても高貴な家の出だが、一般庶民に身をやつして普通の高校に通っている」とかでたらめを書いていた。その度に素直な反応が返ってきて、とても愉快だった。私の書くでたらめな人格を真に受けて、おかしな想像をしているのだ。私はありとあらゆる空想を書き連ねた。お姫様になったり、魔法使いになったり、某国から派遣された女スパイになったりした。そうして色んな「私」を書き連ねれば、小説の主人公のように様々な境遇の私になれるのである。それがとても面白かった。

 その奇妙な交信は、ささやかな私の楽しみになり始めていた。

 授業の終わりを告げるチャイムが、私にとってのゴーサイン。昨日書いた私の落書きに、どんな反応が返ってくるのだろうか。それを考えるだけで、顔が勝手に緩んだ。鞄に教科書を詰める手が、おのずと踊り出す。教室を出て、美術準備室までに至る廊下をずんずん歩く。スキップしそうになるのをこらえて、誰に見られているわけでもないのに、私は平静を装った。

 ノートを開くあの瞬間の、わくわくは抑えきれないものがあった。そして、返信を見るたびに「これは私に向けられた文字なのだ」という実感がじわじわと体の中に充満していって、むずがゆくなった。


 そのうち、いくらかたって――。

 素直なことを書いてもいいのではないか、と私は思うようになった。本当の私を晒してもいいのではないか。私に返信を寄こす相手のことが次第に見えるようになったからだ。姿が浮かぶ相手を、信用してもいいのではないか。そんな風に思い始めていた。


 梅雨が明け始めた頃。六月も終わりに近づいた頃でしょうか。

 私は思い切って、自分のことを書いてみることにした。

 薄暗い美術準備室の中で、私は慣れ親しんだパイプ椅子の上で一生懸命考えた。

 何から書けばいいのだろう。見当もつかなかった。自己紹介なんて、ろくにしたことがない。そんな機会、今まで経験したことがないのだ。等間隔に引かれたノートの罫線と睨めっこして、愛用のシャーペンをもてあそぶ。思いつかなくて、天井を見上げて息をつく。コンクリートの質感と、しみついた油絵の具のくすんだ匂いが私を包み込む。そして、もう一度ノートの白地に視線を落とす。古臭い大学ノートに向かって、私はシャーペンを走らせた。

 緊張で手が震えた。上手く書けなくて、何度か消しゴムでごしごしと消すことになった。自分を落ち着けるように言って、何度か息を吐く。そして、再びペンを走らせる。

 私は、私の名前とクラスと。そして、このノートを見付けた経緯を簡単に記した。『ちょっと美術準備室を覗いてみようと思って、一番奥の棚にこのノートがあるのを見つけたの。』そんな風に書いた。たったそれだけなのに、緊張している私がまるでばかみたいだった。

 その日は帰り道も落ち着かなかった。後悔じみたものと、やり遂げた達成感と、「そんな大層なことしてないのに」と小馬鹿にする色んな私が入り混じっていた。明日まで耐えられるだろうか。こんなうずうずする心を、明日まで持ち続けていられるだろうか。なるべく考えないようにしよう。そんな風に決めて、私は鞄からスケッチブックを取り出した。


 私は寄り道をすることにした。

 通学路の途中、公園のベンチに腰掛けて。噴水の方を眺める。もうすぐ暮れようとする空のオレンジが、噴水の水面に反射する。ブランコの長く伸びた影が、木々の作る影と重なって面白い形をつくる。スケッチブックを腕に抱えて、私は色鉛筆を取り出した。これが、いくつかある私のお気に入りスポットの一つである。気になったものの絵を、気ままに描く。風景を一枚の紙の上に切り取るのだ。そうしていると、不思議と心が落ち着く気がした。

 そのまま私は、一人で絵を描いていた。描き上がる頃には、本当に空が暮れ始めていた。

 この絵を、誰かに見せることはあるのだろうか。そう思った。あのノートの相手に、見せたらどうだろうか。そんなことを少しだけ考えた。


 *


 次の日になって、私の自己紹介の文章に返信がついていた。

『一年C組のカズヤと言います。僕がこのノートを見付けたのも、大体同じような理由です。』

 罫線に沿って、丁寧な文字が等間隔に並んでいた。上に書かれた私の丸っこい文字がとても不器用で下手っぴに見えた。ごしごしと消したせいで、私の書いた文章は少し黒ずんでいる。私は、急にまた恥ずかしくなった。

 それによると、私の相手をしていた人はカズヤ君というらしい。男子生徒のようだ。私は一年B組だったので、別のクラスだ。同じクラスにもお友達がいない私にとって、別のクラスなんて異世界のように感じられる。当然、この人は私と面識がない、知らない人だ。

『あいにく美術にはあまり興味がないけど、この部屋の蔵書の中に天体図鑑があるという話を聞いて借りに来ました。なんとなく、奥に挟まったノートが気になって。誰のだか分からないノートだけど、ちょっと悪戯書きをしたくなって、絵を描いたんです。次の日見てみたら誰かが僕の絵に付け加えてたんで、びっくりしましたよ。』

 そんな風に付け加えてあった。

 どうやら、このノートはカズヤ君のものでもないらしい。一体誰のなのだろう。やはり、美術の先生のものなのだろうか。けれども、もはやそれはどうでもいいことのように思えた。

 最後まで読み終えて、私は大きく息をついた。そしてもう一度、彼の書いた文字をゆっくりと眺めた。

 私でない誰かが書いた文章を見て、「そこに人がいるんだ」ということを改めて実感した。そこにいるのは、私の創作物でも空想物でもない。生身の人間なのだ。文字の上を指でなぞる。不思議と、懐かしい匂いがした。それは、あまり私の経験したことのない感覚だった。


 その日から、私とカズヤ君は本音の交信をし合うようになった。

 私は、私が人と付き合うのを苦手としていることをノートに書いた。友達はおろか、まともにお話しできるクラスメイトもいないこと。人と話をしようとすると、口がカラカラに渇いて、舌が勝手に踊りだして。変なことを喋ってしまうこと。そんな私は、趣味らしい趣味を持っていないこと。唯一趣味と呼べるものがあるとすれば、スケッチブックを持って絵を描くことであること。

 昨日の緊張が嘘であるかのように、私のシャーペンはすらすらと進んでいった。せきを切ったように、ノートの上の私はあれやこれやと自分のことを喋り始めた。私という別人が、私に憑依したかのようだった。彼の筆跡を見て、私は安心したのかもしれない。理由は分からないが、そんな気がした。

 一方のカズヤ君も、自分のことを書き連ねた。

 星や、宇宙や、天体に興味があること。天文部に所属していること。休みの日は天体望遠鏡をかついで外へくり出して、星を観察したりすること。彼も人と付き合うのがあまり得意でないこと。私との奇妙な交信を楽しんでいること。

 他人の話は、私にとってとても新鮮なものだった。物語の登場人物が本から抜け出して、私に語りかけているような錯覚を覚えた。「これが生身の人間の重さってやつですかー」。私は心の中でそう唱えた。

 改めて、私は宇宙人の話を書いた。

 私はこの星に残されたただ一人の地球人である。私の周りにいるのは、宇宙人である。宇宙人たちは自分の輪っかを作ってその内側で楽しく過ごしている。地球人の私は、その輪っかの中に入れない。そんな私が、こうしてノート越しに別の他人とお話をしている。そうこれは、惑星間交信なのだ。別の星で一人ぼっちでやっている地球人との交信なのだ。この美術準備室が、その秘密の交信基地なのだ。私はそう綴りながら、自分でもそう思うことにした。

 その話を読んで、カズヤ君は大層笑ったそうだ。そんな感想を彼は書いていた。

『ヨシノさんは随分、エキセントリックな人だね。』

 彼は、そんな風に私のことを評した。

 途端、私は嬉しくなった。私のことを褒めてくれていると思ったからだ。なんとなく、そんな気がした。しかし、「エキセントリック」という単語の意味がいまいちよく分からなかった。私は、国語辞典を引っ張り出して意味を調べた。「エキセントリック」という言葉を意味を知って、私は突然腹立たしくなった。なんてことを言うのだろう。私を見たこともないのに。夢見る乙女に言う言葉じゃないじゃないですかー。

 惑星間交信は楽しかった。どうということない天気の話や、勉強の話や、お祭りの獅子舞の話をした。獅子舞をなるべく多人数でやるためにはどのようにすればいいのか。もし自分が獅子舞をやるとなったら、どの部位を担当したいか。そんな議論を白熱させた。本当に、どうでもいいことばかり。話をしたからといって、少しも賢くなったり、人生について考えさせられることもなかった。でも、楽しかった。

 美術準備室にいるときだけ、私はくすくすと笑うようになった。普段はのっぺらぼうのお面をかぶったまま、私は俯いていた。存在感を消し、宇宙人たちのレーダーに引っ掛からないように気を配った。美術準備室にやってきたときだけそのお面を脱ぎ去って、本当の私を解き放った。ここは、私が私でいられる場所なのだ。そう思った。

 時折、絵を描く話をした。

 「世界を切り取る」ということの意味を、私なりの言葉で説明してみた。

『例えばさ、朝起きた時。カーテンの隙間から差し込む日の光が妙にこそばゆかったりするでしょ。公園の木々が風を受けて影がゆらゆら揺れている感じとか、雨が降り始めた時に立ち込めるコンクリートの匂いとか。踏切が閉まるときに鳴るカンカンという音とか、少し早く目が覚めちゃった日の新聞配達のオートバイが通り過ぎて行く音とか。そういう、いつもの風景が綺麗だったり、懐かしく感じられることがある。時々、それをあの白い画用紙の中に集めて、閉じ込めたいって思うことがるの。』

『ペンキが剥がれかけた横断歩道の白線とか、古い置時計が重そうに秒針を運ぶ感じとか、錆ついて古くなった学校のロッカーを開けるときに軋む音とか?うーん……難しいなあ。』

 私の説明を読んで、頑張って理解しようとしているカズヤ君の姿が目に浮かんだ。私は何にしても、説明がど下手なのだ。煮え切らない反応を見て、少しだけもどかしくなった。

 カズヤ君から天体の話も聞いた。

 星雲がどうの。恒星がどうの。惑星間距離がどうの。星座がどうの。天体に疎い私は、彼の書く話はほとんどが初耳だった。『ビックバン以来、宇宙は凄まじい勢いで広がっている。これをインフレーション理論というんだ』。そんな話を、彼は楽しそうにノートに書き連ねた。私には、半分くらいちんぷんかんぷんだった。「オタクすげーな」。私はそう心の中で呟いた。

 彼は、天文部の話も書いた。

 主だった活動はあんまりなくて、一か月に一度くらいの頻度でみんなで星を見に行くこと。部の備品である望遠鏡が古すぎて、てんで役に立たないこと。でも、新しい望遠鏡を買うだけの予算もないこと。それどころか、部員が今5人しかおらず、一年生は彼だけであること。先輩は優しい人が多いので、部の中でもなんとかやっていけていること。天文部でのことを、彼はぽつりぽつりと書き連ねた。楽しそうな彼(の文章)を見て、私も楽しくなる。けれども、私の知らないどこかで宇宙人と仲良くしている彼を考えると、心の奥底の小さな穴から寂しさが漏れ出した。

 どうして、人付き合いが苦手なのか。私は彼に尋ねたことがあった。

『僕は中学の頃まで、親の都合で転校することが多かった。元々引っ込み思案であったし、友達が作れない子供だった。ちょっと長い期間一つの土地にいて、その学校の友達と仲良くなっても、結局すぐに別れてしまう。連絡先を書いてもらうこともあった。けれども、少しの間いた僕のことよりも、今自分の周りにいる友達を優先することが大半だった。少し考えれば、そんなの当たり前だよね。それに、子供の自分には電話っていう機械が、電話番号っていう数字の連なりがとてもばかでかく、難しいもののように見えた。』

 そんな風にカズヤ君は答えた。その気持ちは、私にも思い当たる節があった。電話は難しくて、こわいものだ。私にもそんな漠然としたイメージがあった。

 私とカズヤ君は、人との付き合い方について話し合った。

 私からすれば、カズヤ君は私よりずっと人付き合いが上手だ。まず、ちゃんと他の人とお話しできている。私みたいに、頭に血が上ってお辞儀してトイレに駆け込んだりはしなかった。彼がどうして、人付き合いが苦手だと言うのか、私にはよく分からなかった。

『人と話すのは、多分そんなに難しいことじゃないと思うんだ。クラスメイトたちが話していることは、いつもそんな大したことじゃない。昨日見たテレビの話とか、好きな本の話とか、新しく来た先生の話とか。そんな他愛もない話をしているだけだと思う。このノートでの交信と一緒。会話に中身なんてない。』

 あ、そういうこと言っちゃうんだ。

『大事なのは、「会話している」ってことなんじゃないかな。人と人が何かを口にし合って、笑い合う。そういうのを交えて友達って出来るものだと思うけど……。ヨシノさんの場合、思い切りが肝心かな。僕も偉そうなことは言えないけど。「誠意」っていうのは案外形に見えるものだ。それがあれば、多少不器用でも、相手は受け入れてくれるはず。』

 カズヤ君は、そんな優等生みたいなことを私にアドバイスした。

 言いたいことは私だって分かる。でも、全然それで上手くいく実感が湧かないのだ。私と会話しなくたって、クラスメイトたちは会話する相手を持っている。輪っかの向こう側で、楽しくやれる。だから、異質な地球人と意思疎通する必要なんてないのだ。

 私とカズヤ君の人の付き合い方の話し合いは、いまいち実りのないまま終わってしまった。


 *


 そうして、私とカズヤ君はノートの上の交信を続ける中。七月になった。

 制服が夏服に変わり、空気がじとじとと肌に絡み始める。校舎の間にある中庭の、木々の間の水たまりが青々とした空を映し込む。梅雨の名残が夏の気配と混じり合う、そんな季節になった。休みの日にスケッチブックを持ちだして、そんな風景を手元の平面に切り出した。

 期末試験が間近に迫って、学校中がピリピリとし始めた。勉強が苦手な私は、早くから試験勉強を始めないといけない。いつも間に合わずに試験を迎えてしまうのである。

 けれども、今回の試験は少しだけ変化があった。いつも自分一人で行われる試験勉強は、一人ではなかったのだ。

 勉強をしようと思っても、家では集中して出来ないし図書室のような社交的な場は私にはたまらなくこわいものに見えた。それで、美術準備室のあの机を使ってあの環境で勉強することにした。一人でいるはずなのに、何故だか一人じゃない感じがした。

 カズヤ君はすごく勉強が出来る人だった。私は、勉強の途中分からないところがあると、あの古臭い大学ノートにそれをメモする。すると次の日の放課後には、分からなかったところのしっかりした説明がノートに記されていた。彼が丁寧に解説してくれるのだ。あの古臭いノートが初めて役に立った、と私たちは笑いあった。

 そして、期末試験をなんとか乗り越えて、一学期の終業式を迎えた。


「ロッカーの中の荷物は必ずすべて持ち帰るようにして下さい。夏休み中にロッカーを点検します。入れっぱなしになっていたものは勝手に回収して捨てちゃうよー。あと、去年出来たばかりの新しいロッカーなんでもう少し優しく扱ってね……」

 教壇にたった担任の先生がそんなことを話した。けれども、クラスメイトはそんな先生の話も上の空だった。

 空気がすっかり、夏休みじみている。独特の解放感と、わくわくが教室中を支配している。席についている生徒たちは今にも飛び出しそうになるのを必死に堪えているような。そんな落ち着きのなさが、じわじわと伝わってくる。少しだけ開いた窓から夏の匂いが染み出して、遠くで蝉の鳴く声が聞こえた。窓の向こうを眺めれば、ぽっかりと浮いた入道雲が私たちを見下ろしていた。夏を形作るものが少しずつ少しずつ、この世界に溶け込んでいるような。そんな感じがする。


 けれども、私にはその空気は無関係だった。私には、夏休みで浮かれるような出来事が何一つないからだ。

 いや、それはちょっとだけうそだったかもしれない。夏の絵を描くこと。そんなささやかな楽しみが私にはあった。けれども、夏休みになって、あまり頻繁に美術準備室に行けなくなってしまうことの方が私にとって大きな欠落だった。

 私とカズヤ君にとって、惑星間交信は生活の一部だった。ちょっとコンビニに行って、アイスを買う。出先の自動販売機で飲み物を買う。そんな感覚で、あの古臭いノートに毎日を書いた。それが欠けてしまうと、カラーだったアニメが急にモノクロになったみたいに、私の毎日が色褪せてしまう感じがした。


 終業式を目前に控えて、私とカズヤ君は夏休みの過ごし方について話し合った。

『毎日は来れないけど、週に二・三回学校に来て、交信するのはどうだろうか。』

 カズヤ君はそんな提案をした。私も毎日学校に来るのは無理だろう。いくら交信をするからといって、疲れてしまう。週に数回顔を出すくらいがちょうどいいのは私も同じだった。

『片方が交信ノートを書きに来たら、次に来る日Aとその次に来る日Bを最後に書く。もう片方はそれを見て、AとBの間の日に来るようにして、同じことをする。そうすれば、僕らの交信は今まで通り続けられる。』

 なんだか私にはひどくまどろっこしいやり方のように思えた。本当なら予定表なるものを先に作っておけばいいのだ。しかし、夏休み中の予定を今ここで決めることはできそうになかった。そうすると、どうしてもこうしたやり方になってしまうのだろう。私はその提案を飲むことにした。

 そう、このやり方なら。美術準備室にやってきて、交信ノートをめくって返信がついていないのを知って、がっかりすることもないのだ。成果が得られず、とぼとぼと美術準備室を後にする自分を思い浮かべて、身震いした。きっと、カズヤ君はその辺まで配慮してくれたのだろう。私ではすぐに想像つかないことだった。

 そうして私たちは、数日ごとに交互に来てノートを書くことに決めた。


 だた俯いて話を聞くだけのホームルームを終えて、私は美術準備室に向かった。

 相変わらずあの部屋に入るときは、油絵の具の香りが私の鼻をついた。安心する匂いだった。私は、大きく深呼吸して準備室の感覚を確かめた。開け放たれた窓から入った生温かい風が、私の頬を掠めていく。夏の高い太陽の光が、木製のテーブルの上に窓枠の形を映り込ませる。それとなく触ると、照らされた部分だけが熱かった。耳を澄ませると、遠くの方から蝉の鳴く音が聞こえた。

 鞄からスケッチブックを取り出して、窓の外に浮かぶ空の様子を描き始めた。

 お気に入りの24色の色鉛筆で色を塗って。足りない色を、棚の画材置き場から借りて塗りつぶす。色鉛筆とスケッチブックの擦れる音が、準備室の中で響いた。ずっと私は、黙って絵を描いていた。

 静かだった。世界に私だけしかいなくなったような、そんな静けさだった。

 絵を描き終わった私は、一つだけ息を落とした。そして、奥の棚からあの古臭いノートを取り出して、夏休み前最後の交信を始めた。


 *


 高鳴る胸の鼓動に、私はすぐにでも倒れてしまいそうな心地がした。

 周りをきょろきょろしながら、びくびく歩いた。歩き方がよく分からなくなって、足がこんがらがりそうになった。左足、右足、左足、右足。そんな風に自分に言い聞かせないと、上手く前に進めなかった。

 私は、隣町の大きな雑貨店に来ていた。当然一人である。いつも買い物は家の近くのコンビニとか、学校の売店とか、そういうあまり人との関わりが強くないところで済ませてしまうので、こういう大きな店にはほとんど来たことがなかった。自分の周りを数え切れない数の人が通り過ぎて行く。品物の数が多すぎて、どこを見ればいいのかがちっとも分からない。広すぎる店内の通路の途中で、人とぶつかりそうになったりして。びくっと体を震わせて、私は人のいなそうな方いなそうな方へと逃げて行った。


『え?ヨシノさんは学校で指定されてる、あの黒い鞄しか持っていないの?』

 夏休み真っ只中のある日。私が鞄の話をノートに書くと、カズヤ君から驚いたような反応が返ってきた。

 そんなに意外だったのだろうか。外出するあてが学校くらいしか思いつかない私は、それだけで十分なのだ。いざとなったら、あの鞄に荷物をつめればいい。幸い、大事なスケッチブックも色鉛筆も、あの鞄にぴったり収納された。それ以外の大切な持物を、私はあまり持っていなかった。そんな話をそれとなくノートに書いたら、『ヨシノさんは本当にしゃれっ気のない人なんですね。』と言われた。余計なお世話ですよねー。ねー。

『普段、そういうお店には行かないの?一度、そういうお店を見てくるといいと思うよ。さすがに、学校鞄だけじゃ不便だと思う。僕もそういう方面はあまり詳しくないけど、僕がよく行く所なら紹介するよ』

 カズヤ君はそんな風に書いて、お店の名前と場所とをその下に付け加えた。どうやら、そのお店に行って鞄を買ってこいと言っているらしい。彼にそんなことを言われると、変な心地がした。「いやいや、そういうの結構ですからー」。私はそう呟いた。

『僕は学校鞄より少し小さくて、肩からかけるような鞄がいいと思う。スケッチブックがぎりぎり入るくらいの。そうだね……、オレンジのかわいい感じのとか、ヨシノさんには似合うんじゃないかな。』

 カズヤ君はそんなことを、ノートに書いた。

 この人はどうして、「オレンジのかわいい感じとか」が私に似合うと言えるのだ。私のことを一度も見たことがないはずなのに。彼は、私の人物像を勝手に想像して、適当なことを言っているのだろうか。これまでの交信のイメージがそんな感じだったのだろうか。私はちょっとだけむっとして、唇を尖らせた。

 でも、彼の言う「オレンジのかわいい感じの鞄」がなんとなく私の頭に残った。「かわいい感じ」とはどういう風にかわいい感じなのだろう。スケッチブックとか色鉛筆とか、そういうのがちゃんと運べるような鞄なのだろうか。考えれば考えるほど、分からなくなった。私の頭の中で、色々な形の鞄が右から左へと流れて行った。けれども、おしゃれな鞄やかわいい鞄をあまり見たことがない私には、鞄の種類や形や色がよく分からなかった。

「どうしようかな……」

 ひとりでに、私はそんなことを呟いていた。


 そして結局、私はカズヤ君の指定したお店に足を運んでしまっていたのである。

 まったく、来て後悔である。後悔の連続である。後悔の大あらしである。これもすべて、カズヤ君の作戦なのだ。通りがかる人を見るたびにびくびくしなくちゃいけないのも、自分がどっちに行くのか分からなくてきょろきょろしなくちゃいけないのも。こうしてずっとどきどきしっぱなしで胸が苦しいのも。他の人から変な目で見られているんじゃないかと不安になるのも。全部、カズヤ君のせいなのだ。あんな私を引っかけるようなことを言うから、私はこんなひどい目に遭っているのだ。そう思うことにした。そう思うことで、この修羅場を耐え凌ごうとした。「こんちくしょー」。私は心の中で呟いた。

 頭がパンクしそうになりながら、あっちへふらふらこっちへふらふらと私は歩き続けた。食器コーナーとか耳かきと爪切りコーナーとか壁一面に蛇口がいっぱい刺さったコーナーとか色んな種類のゴミ箱が一列に並んだコーナーとか、へんてこな売り場を通過した。私の気分は、まるで不思議の国を探検するかわいい少女のようだった。名前は忘れたが、かわいい少女のようだった。

――と。

 不思議の国を彷徨っていると、私の目の前に鞄らしきものがたくさん広がった売り場に辿りついた。

 きっとここに違いない。ここが私の目指していた場所なのだ。私の直感がそう告げていた。

 私は、数ある鞄の中から、カズヤ君の言う「オレンジのかわいい感じの」鞄を一生懸命探した。ちゃんとスケッチブックとか、色鉛筆とか。そういうものが入るサイズのものを向こうの棚からこっちの棚まで見て回った。けれども、ピンと来るものがなかなか見当たらなかった。

 しかし、売り場のはじっこで、ついに私は見付けてしまった。

 こげ茶の鞄の奥に、少し茶っぽいオレンジ色をした革の鞄が目に留まったのだ。私は屈みこんで手を伸ばして、その鞄を奥から引き出した。ファスナーを開けて、大きさを確認する。スケッチブックも、色鉛筆もちゃんと収まりそうな大きさをしていた。ベルトに手を伸ばして、肩から掛けてみた。そして、鏡を覗きこむ。そこには、かわいい感じの鞄が私の腰の辺りに映り込んでいた。これでもかというくらい、私の手に馴染んだ。角度を変えて、もう一度鏡を覗いてみた。驚くことに、地味でぱっとしない私が、そこらを歩いているおしゃれ上級者さんのように見えた。私はその鞄がすぐに気に入った。

 しかし、値札を見ると1万500円と書いてあった。私の二カ月分のお小遣いを超える値段がついている。鞄とはこんなにお高いものなのですか。私の心は揺れ動いた。屈みこんで、その鞄を睨みながら悩み始めた。


「お客様、ご気分でも悪くされましたか?」

 その言葉は、私の耳にすぐには入らなかった。数秒遅れて、私に向けられた言葉なのだと気付いて、私はびくんと体を揺らした。我を忘れてその鞄と睨めっこを続けていたらしい。他人の視線とか、声とかが私の頭に入ってこなかった。店員さんがそんな私の様子を見かねて声を掛けてきたらしかった。怪訝そうに覗きこむ店員さんを見て、私は慌てて立ち上がった。

「あああああ、あの……、これください!」

 私は震える声でそう言った。言ってしまった。店員さんは不思議そうに私を見て、二度瞬きをした。「かしこまりました。こちらですね。ではレジの方へどうぞ」。そう言うと、店員さんは私をレジの方へ案内した。私は頭が真っ白になった。

 私は言われるまま、レジでお金を支払った。幸い足りるだけのお金を持っていた。そして、商品を包んだ紙袋を手にして初めて「ああ、私は買ってしまったのだ」ということに気がついた。ぽけーっと突っ立ったまま、今自分がしたことを頭の中でリピートした。そして、徐々に私の心は満足感で満たされていった。

 紙袋の中を覗きながら、「明日カズヤ君に何て言ってやろうか」ということを考えた。


 *


 私が鞄を買いに行った話を読んで、カズヤ君は可笑しそうな返信を寄こした。

 鞄を買いに雑貨店へ行ったことで、私はとても大変な目に遭ったこと。目まぐるしく人がすれ違う中で、私は勇敢にも雑貨店を探検したこと。幾多もの苦難を経て、ついに隊員は鞄コーナーに到達したこと。そして、鞄コーナーを見て探すうちに、「オレンジでかわいい感じの」鞄を掘り当てたこと。結局、それを買ってしまったこと。思い思いに私は綴った。

『冒険譚、面白おかしく読ませて頂きました。つくづくヨシノさんは変な人ですね。そっか、本当に買いに行ったんだ。意外だった。それにしても、お気に入りの鞄が見付かって良かったね。力になれた気がして嬉しいよ』

 またそんな控え目で優等生的なコメントを、カズヤ君は残した。「てんでちっともすこしもあなたのおかげじゃないですよー」。私は心の中で呟いた。勘違いされては困る。

 それからというものの、私がどこか出掛ける時は必ずその鞄を持ちだすことになった。


 そんな出来事があった七月が終わって、八月。夏真っ盛りとなった。

 水っぽい空気が肌にまとわりつく。誰かになめられたみたいに、ぬめぬめとする。容赦なく照り返す学校の廊下を通過して、私は例のごとく美術準備室に入った。不思議なことに、美術準備室は廊下よりも涼しかった。風通しはあまりない。木の陰のような、ちょっとしたひんやり感があの部屋には広がっていた。しかし、相変わらず窓から差し込む日の光は強かった。長机を照り返す光が眩しくて、私は目を細める。

『実は今週一週間は、ノートを書きに来れません。というのも、天文部の合宿で天体観測行ってくるんだ。少し離れた街の、丘にある公園でみんなで星を見る。その近くに先輩の家があって、一度望遠鏡なんかの機材をそこに運んだりして……、なんだかんだで一週間くらいになっちゃうんだよね。』

 なんとなく。

 じりじりとうるさい蝉の声が、引いていくような気がした。

 あの古臭い交信ノートを開くと、そんな文字列が一番下に書かれていた。観測に行く丘の公園の名前とカズヤ君の今週のスケジュールが簡単に記されている。カズヤ君の筆跡を目で辿る。少しだけ、彼がはしゃいでいるように見えた。きっと、合宿を楽しみにしているのだろう。なんとなく、そんな気配がページの上から伝わってきた。

 私は、じっとそのページを睨みつけた。

 ぎゅっと、交信ノートを掴む。背表紙のざらざらする感じが私の指を伝って、体に染み込んでくる。私は大きく息をついた。夏なんだから、白い息なんか出ないのに。私は、手で手をさすった。手がかじかんでるわけないのに。

 大きく深呼吸をする。くすんだあの美術準備室の匂いとともに、夏っぽい香りがした。

 私は、交信ノートを閉じた。

 その日は何も書かずに、美術準備室を後にした。


 *


 それからの三日間、私は色んな事を考えた。

 今週は学校に行かないことが、私の生きているリズムを狂わせた。家にいても、なんとなく外を散歩しても落ち着かない。噴水の見える公園や、街を見渡す高台や、猫がたむろしている路地裏や。私のお気に入りの場所を巡っては、スケッチブックを取り出して絵を描く。色鉛筆で色を塗る。しかし、私の心に空いた穴はなかなか埋まらなかった。

 これが、あの古臭い交信ノートに出会う前の私なのだ。忘れていたけれど。そう思った。

 そんなことも忘れてしまうくらい、交信は私の日常の一部だったのだ。

 けれども、私はカズヤ君に会ったことがない。私の知るカズヤ君は交信ノートの上のカズヤ君だけだ。いつも会話した気になっていたけれど、あれはきっと会話でも何でもないのだろう。毎日の当たり前のことは、全然当たり前ではないのだ。そう、私かカズヤ君が書くのをやめてしまえば、交信はいつだって終わってしまうのだ。

 公園のブランコの上に座りながら、夕暮れの、落ちて行く日をじっと見つめた。私は鎖を強く握り締めた。ひねった鎖がきしむ音がした。そうしていないと、何かがこぼれ落ちて行きそうだった。

 そして私は立ち上がり、地に足をつけて歩きだした。


 ふと気付いたら、私は電車に乗っていた。

 車窓から、真っ暗に暮れていく空の様子を眺める。遠くの街の明かりが、点々と覗かせていた。息を吹きかけると窓ガラスが白くくもる。その上を指でなぞると、また遠くの街の明かりがはっきりと見えた。あまり見慣れない景色が、私を不安にさせた。

 一時間くらい電車に揺られて、私は下車した。後ろから響く電車の音が遠のいていく。少ない明かりを頼りに、人気のない駅のホームを歩く。改札を出て、駅舎を照らす電球の下で、私は地図を広げた。

 その駅に下りたのは初めてだった。普段どこへも出かけない私にとって、電車に乗ること自体が珍しい。この時間に外にいるだけで、びくびくしてしまう。心細さが私の胸辺りに冷たく沈澱していった。

 私は、あの丘を目指した。

 30分くらい歩いた頃でしょうか。腕時計を見ると、8時を回っている。もし、突然思い立って電車に乗ったりしなければ、今頃私は夕ご飯を食べていたはずだった。もう食べ終わって、私の部屋でのんびりしていたかもしれない。私を突き動かした何かと、後悔じみたものがせめぎ合って、その上に不安感がのしかかった。けれども、私の足は止まらなかった。

 上り坂が続いた。住宅街や並木道を通過した。懐中電燈が欲しいくらい、辺りは暗かった。草むらの方から虫の鳴く声が聞こえる。ときどき通り過ぎる車のライトが、無性に懐かしく感じられる。

 そして、私は丘に降り立った。

 一面原っぱが広がっていた。道の部分だけが少しだけ舗装されて、白くなっている。丘の下は崖になっていて、手すりがついていた。手すりの前のレンガの道にぽつぽつと電燈が置いてあって、あとは本当に明かりがない。丘の反対側の方まで見渡せない暗さだった。手すりに寄りかかっている人が何人か見える。原っぱの上に座って星を眺めているグループもちらほら見かけた。しかし、全部は見て取ることが出来ない。

 そう、こここそ私が目指していた場所だった。

 カズヤ君が天文部の仲間たちと天体観測に来くると書いてあった、あの丘だった。この日、この場所で。カズヤ君は天体観測をしているはずだった。私は、そこへわざわざやって来てしまったのだ。

 昼間の茹だるような暑さと違って、夜の風は涼しかった。薄着で来てしまったのを後悔した。手をさすって、私は原っぱの上に腰かけた。そして上を向く。

 星が降るような空だった。

 空中にびっしりと、星の光が貼りついていた。隙間を縫って線を引こうとしても、途中でどこかの星にぶつかってしまうんじゃないかっていうくらいびっしりと詰まっていた。本当の星空の上に、誰かが落書きをしたんじゃないかというくらいいっぱいあった。それぞれ一つ一つが、明るさも色も大きさも違って見えた。空気の加減で、ときどき瞬いて見えた。まるで生きているみたいだった。

「これがカズヤ君が言ってた、星空かー」

 私はそう呟いた。


 私はあのお気に入りの鞄から、スケッチブックと、色鉛筆と。そして、あの古臭い交信ノートを取り出した。

 私は交信ノートを初めて美術準備室の外に持ち出した。この丘を目指す前に学校に立ち寄って、それから電車に乗ったのである。どうしてそれを持っていこうと思ったのかは自分でもよく分からなかった。けれど、この交信ノートを持っていかないとだめな気がした。ノートが手元にないと、いたたまれない気持ちになったのだ。

 私は、この星空をスケッチしようと思った。

 けれど、辺りが暗すぎて、できそうになかった。そんなこと、ちょっと考えれば当たり前なのに、私は思い至らなかった。私はこんなところが不器用で、どんくさいのだ。可笑しくて、急に変な笑いがこみ上げてきた。

 諦めてスケッチブックと色鉛筆をしまった。そして、交信ノートを握った。懐かしい、あのざらざら感が私の指に伝わった。私は一つだけ、溜息を洩らした。そして、もう一度星空を見上げた。

 きっとこの星空を、カズヤ君たちもこの丘のどこかで見ているのだろう。そう、私と同じ星空を見ているのだ。そう考えて、交信ノートを胸に当てる。このノートがあれば、カズヤ君がそばにいる気がした。きっと私は、心のどこかでそんなことを考えていたのだろう。

 一つだけ星の集団から外れて光る星があった。なんだか色も明るさも、とても鈍い。きっと集団の中に入り損ねた星なのだろう。どんくさい星だった。まるで私みたいじゃないですかー。可笑しかった。

 笑ったのに、私の目から涙がこぼれ落ちた。

 意味が分からなかった。私は急いで手で涙をぬぐった。こんなところ誰かに見られたくなかった。「星空の素晴らしさについ感動してしまって涙をこぼす少女」なんて古臭いセンスの女の子だと思われたくないじゃないですか。もっとハイカラな女の子でいたいじゃないですかー。それに、実際のところ、なんで私の目から涙がこぼれたのかよく分からなかったのだ。

 そうしているうちに、なんだか今まで感じていた不安がどうでもいいことのように思えてきた。

 私は立ち上がって、服や鞄についた草を払った。星空を目に焼きつけながら、「このことを全部カズヤ君に言いつけてやろう」と思った。



 *


 数日経って、カズヤ君は合宿から帰ってきた。

 私の書いた交信ノートを読んで、カズヤ君は大層驚いたようだった。それはそうだろう。彼が天文部の部員たちと天体観測を行ったあの丘に、私がいたのだ。誰だってびっくりするし、思うところがあるに違いない。そういう意味で、私の作戦は成功したのだった。

『あの丘から見た星空、どうだった?あそこから見える空はそんじょそこらの星空とは違ったんじゃないかな。ああいうの見ちゃうと、どうしてもロマンを感じてしまうんだ。』

 そんな風にカズヤ君は書いた。少し筆跡が踊っていた。書きながらきっと彼は子供っぽく笑ったんじゃないか、と私は思った。 

 星空はすごかった。綺麗だった。私はそんな風に簡単に書いた。絵を描こうとしたけれど、暗くて出来なかった。諦めて、目に焼きつけることにした。そう付け加えた。でも、涙を流してしまったことは書かなかった。恥ずかしかったし、私にも見栄というものがあったからだ。


 そしてまた、私とカズヤ君はどうでもいいような話を交信するようになった。

 天気のこととか、季節のこととか、絵のこととか、宇宙のこととか。テレビのリモコンがひとりでにベッドの下に隠れてしまう仕組みとか、財布が1円玉ばかりになってしまう仕組みとかについて真面目に話し合った。リモコンがベッドの下に隠れないようにするにはどうすればいいか、財布が1円玉ばかりにならないようにするにはどうすればいいかについての対策を一生懸命考えた。どちらもノーベル賞級の画期的なアイディアが浮かんだのだが、すぐに忘れてしまった。

 そうして、私とカズヤ君の交信ノートは復活したのだった。


 のんびりとした八月が終わって、九月がやってきた。

 夏休み終盤になって、宿題を一生懸命片づけ始めた。分からないところがあると、また私は交信ノートを通してカズヤ君に尋ねた。カズヤ君はその一つ一つに丁寧に答えてくれた。そのおかげもあって、無事夏休みの宿題を終えることが出来た。そして、始業式の日がやってきて、私たちは一学期のときのように毎日交信するようになった。

 変わらず、私たちは交信をし続けて。十月になった。


 私には少しだけ、気になることがあった。交信ノートのことである。

 一学期からずっと書き込み続けたあの古臭い交信ノートのページが、そろそろ少なくなってきていた。毎日毎日、私とカズヤ君が書き込み続けているんだから、当然のことである。過去のページをぱらぱらと振り返って、本当にどうでもいいことばかり話していたのを思い出す。可笑しくて、笑みがこぼれる。しかし、残りのページ数が少なくなってきたことは少しばかり不安になった。すべてのページを使い切ったら、また新しいノートを用意しなくてはならないだろう。その手順とか、そういうことをまたカズヤ君と話し合わないといけないな、と思った。


 そして、それは秋雨がしとしとと降る、静かな日のことだった。

 放課後。いつものように私は美術準備室を訪れた。美術準備室はすっかり通い慣れてしまったが、私以外の人が利用することは皆無だった。棚に入った美術書や画集の様子もすべて把握してしまった。置いてある画材もチャレンジしてみたことがあったが、使い慣れない道具は変な感じがして、上手く描くことが出来なかった。結局、私は自前の色鉛筆とスケッチブックで色々な絵を描いて回るのだった。

 扉を開く。いつものように中に入って、あの古臭い交信ノートを取り出した。そして、カズヤ君の返信を見た。


『実は、今日は話さなければならないことがあります』

 いつもと違う書き出しで、そんな文字が連なっていた。いつもより緊張した感じの筆跡だった。

『どこから書けばいいのか迷っているんだけど……。僕、天体とか宇宙に興味があるのは話したと思う。今も天文部に入っているし、物理とかロケットとかを自分で勉強してたりすることも知ってるよね。それで――』

 まどろっこしい書き方が続いていた。カズヤ君らしくない歯切れの悪い書き方だった。なんだろうと思い、私は続きを読み進めた。

『僕、転校することになったんだ。』

 ぴしゃん、と雨の跳ねる音が私の耳の中で響いた。

 転校って。どういうことでしょう。何かじくじくするものが心の中に立ちこめながら、私は続きを読んだ。


 彼が言うことを要約すると、こういうことらしい。

 彼が今自分で勉強していて、進みたいと思っている分野があること。それを果たすためにもっと専門的な勉強をしたいこと。専門的な学習が出来る場所に行くことを、ずっと前から検討していたこと。そして、それが出来る場所をようやく見付けたこと。彼の行きたい分野というのが私にはよく分からなかったが、彼が転校先として選んでいる場所は高専と呼ばれる学校らしい。そこでは、実習や専門科目の授業があるということ。もう編入試験と面接を終えていて、来月にはそちらに学校を移すことになること。

 そういう内容がとつとつと書かれていた。

『今まで黙っててごめんなさい。』

 そう、彼は控え目に謝った。申し訳なさそうに私を見る彼の顔が、なんとなく浮かんだ。


 また、いたたまれない気持ちが私の中でふつふつと湧き上がった。カズヤ君が私に背中を向けている。放っておけば、あちらに行ってしまう。しかし、私には彼を留めることが出来ない。留めることは正しい選択ではないだろう。そんな気もした。私は何も言えなくなった。何も言えずに、ぼーっと窓の外を眺めた。

 開きっぱなしの窓から雨が差し込んでくる。窓枠に跳ねた雨がぴしゃん、と音を立てる。窓際の床が濡れて、うっすらと水たまりを作っている。水たまりが、べっとり灰色に染まった空の様子を反射していた。

 私は椅子から立ち上がった。そして、ゆっくりと窓を閉めた。雨音が遠のいた気がした。


 手が鞄の中のスケッチブックに伸びようとした。しかし、必死になって自分を止めた。首をぶんぶんと振る。それじゃいけない、それじゃいけないんだ……。そう思った。「逃げてはいけない」。そんな風に自分に言い聞かせた。

 ごくり、と唾を飲んで。私はシャーペンを手に取った。そして、交信ノートに文字を書き始めた。


 *


 交信ノートの残りページはみるみるうちに少なくなっていった。それと同時に、カズヤ君が学校を去る日も近付いていった。

 私は喜んだふりをした。カズヤ君が自分のやりたいことを求めて、自分の道を進むのである。祝福しない訳にはいかなかった。私と同い年なのに、彼は私よりずっと先のことを考えている。やりたいことを目指して、一直線に進もうとしているのだ。うじうじと美術準備室に来てはノートに書くだけの毎日を送っている私は、彼を見て恥ずかしくならなければならないはずだった。

 彼が学校を去る日が少しずつ少しずつ近づきながら、私たちは色んな事を話した。彼の転校準備の話を読みながら、私は私に出来る限りのアドバイスをした。きっとしっかりしているカズヤ君のことだから、そんなのいらなかったに違いない。けれども、彼は私の話を嫌がることなく聞いてくれた。「この人、善意の塊じゃないですかー」。私はそう呟いた。善意ばかり振りまく姿が、ときどき私をいらいらさせるのだ。

 転校の話ばかりではなく、いつものようにどうでもいい話もたくさんした。傘を忘れたときの効率的な雨のよけ方の話とか、カップ焼きそばを湯切りする時麺をこぼさない方法の話とか、ノートがなかったらすぐに忘れてしまうようなどうでもいい話ばかりだった。どうでもいい話を続けながら、私たちは残り少ない交信を惜しんでいた。

 このままでいいのだろうか。そう考えることもあった。

 このままなんとなく毎日を過ごしていて、いいのだろうか。何もしなかったら、カズヤ君は学校からいなくなってしまうのである。学校からいなくなってしまうということは、もう二度と彼と惑星間交信が出来なくなってしまうということである。またあの、宇宙人たちの中に一人私は放り出されるのだ。色んなところに広がっている輪っかの外側で、小さくうずくまっていることしか出来ないのだ。

 しかし、何をすればいいのかも分からなかった。カズヤ君を留まらせることは出来ないし、転校してしまう日を延ばしてしまうこともできない。私は無力だった。そして同時に、身動きが取れなかった。私には知恵も勇気も、色々なものが足りてなかった。足りてない、足りてないと嘆きながら、悶々と交信ノートに向かってまたくだらない話ばかり続けるのであった。


 ついに、カズヤ君が転校する日が数日後に迫った日。

 焦りばかりが募る中、私はいつも通り放課後に美術準備室を訪れた。転校の話を聞いて以来、この部屋の扉を開ける瞬間が憂鬱だった。あんなに楽しんでいたのに、この部屋の中で笑うことは少なくなっていた。

 私は、あの古臭い交信ノートを引っ張り出して、今日のページを開いた。

『一つ提案があります。』

 今日のカズヤ君の返信は、そんな風に始まっていた。

『もう、ヨシノさんと話が出来る機会が少なくなってしまったよね。ばかなことばかり話していたように思う。僕も実のない話ばかりしてました。実のところ、僕はそれをすごく楽しんでた。だから、こうして話せる機会が残り僅かになっていくと、とても名残惜しいです。なので――』

『一度だけ、話が出来なくなる前に、僕たち会ってみませんか。』

 カズヤ君はそんな風に書いた。それが、カズヤ君の提案だった。

 日時と場所が記されていた。カズヤ君が転校してしまう二日前、場所は正門前の交差点。『放課後、そこで待っています。』。彼の記述はそう結ばれていた。少し緊張したような筆跡だった。いつもと違う話に、きっと彼もどきどきしながら書いたのだろう。そんな気がした。

 彼の記述をすべて読んで、私は大きく息をついた。そして、顔をノートの上にうずめた。髪がくしゃくしゃになった。横を向くと、少し錆ついて古くなった準備室の扉が見えた。

 どうしたらいいか、分からなかった。

 カズヤ君は私に会えと言う。確かにそれは魅力的な提案だろう。彼が転校してしまう前にするべき何かにぴったりな気がした。そういうところをちゃんと考えて提案できる彼は、やっぱり私よりずっとしっかりしているのだ。しかし、私はいまいち彼と会う気にはなれなかった。

 彼と会って、私は何を話せばいいのだろう。どんなことを言えばいいのだろう。ちっとも思いつかない。ましてや、私は極度に人と話すのが苦手である。彼の前に立ったら、また意味不明なことを口走って逃げてしまうに違いない。そうすれば、カズヤ君もいい気持ちはしないだろう。私とカズヤ君は交信ノートを通していれば見知った中だが、現実では少しも知らない相手なのだ。きっと、傷つけ合って終わってしまうに違いなかった。

 しかし、他に何か方法があるだろうか。やはり、私には何も思いつかなかった。私はまともに人付き合いをしたことがない。だから、こういうとき何をすればいいのかてんで分からなかった。


 悶々とうじうじと悩んでいるうちに、ついにその日が来てしまった。

 朝から色んな事が上の空だった。朝家を出るとき玄関の扉を開け忘れて鼻をぶつけたり、横断歩道の白いところだけ踏んで行くのを忘れたり、学校の入り口で上履きに履き替えるのを忘れたりした。一日中呆けたまま、ずっと、どうすればいいかを考えていた。

 けれども、答えなんか出なかった。悩んだところで、解法など生まれなかったのである。

 授業もちっとも頭に入らず、窓の外を眺めながらずっと考えごとばかりしていた。私をあざ笑うかのように、その日はいい天気だった。雲一つない天高い秋空だった。私の心はずんずんと沈んでいった。雨雲が心の中でたくさんたくさん、立ち込めた。降り注ぐ雨に、私はびしょびしょだった。

 そして、ついに放課後になってしまった。

 教科書とノートと、筆記用具を鞄の中にしまう。前の方でクラスメイトたちがこの後ファストフードに寄って行く話などをしているのが聞こえた。私の抱えた悩みなど、誰も気付いたりはしないのだ。宇宙人たちには、私の考えていることなど少しも理解できないのだろう。そう思った。

 私は鞄を手にとって、立ち上がった。俯いたまま、クラスメイトたちを避けるようにして教室を後にした。しかし、その日は美術準備室に向かうわけにも行かず、私には居場所がなかった。まるで自分が、どこにも必要とされていないみたいだった。

 行く当てをなくした私は、学校の中庭を歩いていた。秋風に身を晒しながら、ただただ歩き続ける。木陰を数えて、足を進める。そうして何かをしていないと、心が挫けてしまいそうだった。今もう、交差点でカズヤ君が待っているのだろうか。私が来るのをずっと待っているのだろうか。そう考えると、心が揺らいだ。

 未だに私は悩んでいた。会うべきか会わないべきか。会ったら、何を話せばいいのか。何もできないまま、そうして私は立ち往生をしている。なんて愚かなのだろう。私は空を見上げて、そして、自分の意気地なさを呪った。

 私は大きく深呼吸をして。自分の鞄の取っ手をぎゅっと掴んだ。手が赤くなるまでぎゅっと。何も出来ない自分に腹立たしさを感じながら、血が出るんじゃないかというくらいぎゅっと。私の分身がそこにいたら、この鞄をそいつの顔に投げつけていただろう。そんな気がした。


 決めた。

 私はそう、口にした。

 会いに行こう。会ってやろうじゃないですか。青い恐竜でもオレンジの雪男でも会ってやろうじゃないですか。それで私とカズヤ君の関係がぶっ壊れても、世界が消滅しても、きっとなんとかしてみせようじゃないですかー。「おっしゃー!」。私はそう、口に出して叫んだ。そして、校舎の方へ歩き出した。

 校舎に入って、表玄関に向かう途中の廊下で、何人かの生徒にすれ違った。いそいそと小走りに私を抜いて行った。何かあったのだろうか。向こうを見渡すと、なんだか玄関の方の様子がおかしい。騒然としているように見えた。私は首を傾げた。すると、途中で私を追い抜く生徒たちの会話が洩れ聞こえた。


「正門前の交差点に車が突っ込んだんだって!男子が一人轢かれちゃったらしいよ!」

 どすん。

 私の勇み足は突然そこで止まってしまった。握りしめた鞄が指の間をするりと抜けて、床に落ちる音がした。

 遠くから、救急車のけたたましいサイレンの音が近付いてくるのが聞こえた。


 *


 私はしばらくその場に立ちつくしていた。どのくらいたったのだろう。はっと我に帰った私は、すぐに表玄関の方へ走り出した。泣きそうになりながら、唇を噛みしめた。鉄の味が私の口いっぱいに広がって、私は顔をしかめた。力を緩めたら、泣いてしまいそうだった。

(カズヤ君が車に轢かれた……?)

 そうとしか考えられなかった。私を待って、彼は正門前の交差点のところにいたはずだった。そこへ車が突っ込んだのなら、彼は巻き添えになっているに違いない。轢かれたとすれば、彼以外考えられなかった。

 走りながら、いつもよりずっと冷静なことを考えている私に嫌気が差した。私はなんて性根の腐ったやつなんだろう。自己嫌悪でいっぱいになりながら、カズヤ君のことを考えた。私を待ちぼうけしながら、そのまま暴走した車の餌食になったのである。やるせなかった。もっと早く、もっと早く私が決断していれば……。悔しくてたまらなかった。

 表玄関を走り抜け、私は正門の方に一直線に駆けていった。下校する生徒をよけては押しのけて、救急車のサイレンが赤く光ったあの場所へ進んで行った。足がもつれそうになって、ひどくもどかしくなりながら。私は一生懸命足を動かした。そして、正門前の人だかりをかき分けて。私は交差点の前に辿りついた。

 交差点のガードレールがぐにゃりと曲がって、車のバンカーが面白いほどべこりとへこんでいた。道路のコンクリートの上には赤黒っぽい血がついているのが見えた。息を切らしてその光景を見た私は、気持ち悪くて今にも倒れそうだった。

 轢かれた人はそこにはいなかった。救急車の中に担ぎ込まれたのだろうか。救急隊員らしき人が私の前を通って救急車に乗り込もうとしていたので、私はその人に駆け寄った。

「あ、あの……その……えっと、轢かれた人は!」

 私は口をもごもごさせながら、そんなことを叫んだ。上手く舌が回らなかった。

「君は?あの子の知り合い?」

 どうしていいか分からず、私はぶんぶんと頷いた。私の血相を変えた表情に圧倒されているみたいだった。ぱちぱちと二度瞬きをして、私の方に視線を寄せた。そして、私の目を見て、その人は告げた。

「患者さんは、えーと。二年生の男子高校生、フジワラサトキ君。友達と下校している時に車が突っ込んできたって聞いたよ」

 異世界の異国の言葉のように、私には感じられた。


 は。

 これは、どういうことでしょう。

 カズヤ君じゃない?

 カズヤ君は轢かれていない!?


 訳が分からず、私は目を白黒させた。すがるように、救急隊員の人の腕をつかみ取る。

「あの、カズヤ君っていう人は……!」

 私は再び救急隊員の人に叫んだ。私の慌てぶりに驚いたのか、その人は私の肩に手を当てて落ち着くように言った。「いいから早く!」。私はそう叫びたかった。

「被害に遭ったのは一人だけだ。その……、カズヤ君って子は轢かれてないよ」

 カズヤ君は轢かれていなかった。


 *


 私は動転したまま、しばらく冷静に考えることが出来なかった。なんと不便な頭でしょう。都合が悪くなるとすぐに私の頭はパンクしてしまうのです。

 まともに何かを考えることが出来るようになったのは、それから何時間もたってから。私が帰途についてからのことだった。

 車道から歩道へ突っ込んできた車に巻き込まれた男子生徒は、フジワラサトキという名前の二年生だった。友達と二人で下校している途中、運悪く事故に巻き込まれたらしい。両足を強打して骨折したが、それ以外に大きな怪我はなかったという。そんな話を後から聞いて、私は少しだけほっとした。

 しかし、私には分からないことだらけだった。辻褄の合わないことだらけだった。

 もし、カズヤ君があの交差点で私を待っていたなら、彼も事故に巻き込まれていたはずである。ガードレールや車のフロントのひしゃげ具合からいってそれは間違いない。それだけの大事故だったのだ。しかし、事故に遭ったのはカズヤ君ではなく、フジワラサトキという名前の二年生の男子生徒だった。

 事故に遭ったあの男子生徒が、カズヤ君の正体だったのだろうか。いや、それも考えにくいと思う。私と会うために交差点で待っていたなら、お友達と一緒に下校することはないだろう。それは不自然なように思えた。

 そうすると、カズヤ君はあの交差点にいなかったことになる。あそこで私を待っていなかったことになる。それは一体何を意味するのだろうか。カズヤ君は私に嘘をついたのだろうか。カズヤ君の嘘に騙されて、私がぬけぬけと交差点の前に現れたところを「どっきり大成功」の看板を持った宇宙人たちが私をお出迎えするはずだったのだろうか。しかし、それも私にはとても考えにくいことだった。約半年にわたって私が交信をした相手である。筆跡の具合を見るだけで、嬉しそうにしているか楽しそうにしているか緊張しているのか分かってしまうくらい、心を交わせた相手である。

 カズヤ君は存在する。私にはそんな確信があった。

 そうでなくっちゃ私があまりにも可哀想じゃないですかー。そうお空に向かって叫んだ。


 私の抱えた違和感はそれだけじゃなかった。ずっとずっと、この半年の間、小さな違和感が積もり続けていたのだ。その違和感に目を瞑りながら、私はカズヤ君とあの古臭い大学ノートで交信をし続けていた。今こうして大きな矛盾が目の前に現れて、その小さな違和感が意味深に私を揺さぶった。どういうことだろう。私は一生懸命色んな事を考えた。

 私が「世界を切り取る」ということの意味をつらつらと交信ノートに書いたとき、彼はこんな返信を寄こした。

『ペンキが剥がれかけた横断歩道の白線とか、古い置時計が重そうに秒針を運ぶ感じとか、錆ついて古くなった学校のロッカーを開けるときに軋む音とか?』

 錆ついて古くなった学校のロッカーを開けるときに軋む音。

 これはどうしたっておかしい。私たちが通う学校のロッカーは、去年作り直したばかりだと担任の先生が言っていた。そう、ロッカーはぴかぴかなのである。ぴかぴかの出来たばかりのロッカーがどうして古くて錆ついているのだろうか。

 また、学校指定の鞄についてこんなことを言っていた。

『え?ヨシノさんは学校で指定されてる、あの黒い鞄しか持っていないの?』

 学校で指定されている、あの黒い鞄。

 これもひどくおかしかった。だって、私たちの学校で指定されている鞄は黒ではなく紺なのだ。紺の不格好な感じだけど、スケッチブックや色鉛筆が入る鞄である。あの鞄はどう見ても黒ではなかった。

 カズヤ君は一体誰で、どうしてこんな違和感を生むような事を書き続けたのだろう。カズヤ君は私の幻想だったのだろうか。私に話し相手がいないあまり、頭が変になってカズヤ君という幻の男子生徒を作りだしてしまったのだろうか。それはにわかには信じがたいことだった。


 次の日。放課後まで待った私は、美術準備室ではなく図書室に向かった。休み時間は人でいっぱいなのだが、放課後になると図書室はがらんとしていた。私が誰か別の宇宙人と会話しなければならないイベントが発生しずらかった。それを見計らって、私は図書室の本棚を漁りに行った。

 私は学校の資料が保管されている棚を探した。学校の公の資料のコピーが図書室には保存されていて、私たち生徒にも見れるようになっているのだった。その中から、一冊のファイルを抜き出して、ページをぺらぺらとめくった。

 また一つ、私の違和感が的中した。

 今現在この学校には、天文部が存在しなかった。天文部は部員足らずで二年前に廃部になっていたのだ。


 天文部に在籍していたカズヤ君は一体誰だったのだろう。彼はどこの天文部の仲間たちと天体観測に行ったのだろうか。頭をぐるぐるとさせながら、私は一生懸命考えた。オーバーヒートして煙が出てくるんじゃないかというくらい考えた。

 そして、私に一つの仮説が浮かんだ。

 ばかみたいに突飛で、それは私自身もすぐには信じられないものだった。


 それを確かめに、私は美術準備室に向かった。私が通い慣れた、くすんだ油絵の具の匂いが立ち込めたあの部屋へ。一歩一歩、足を進めた。扉を開けて、中に入る。戸棚の中から、いつものあの『交信ノート』を引っ張り出して、そして私はページをめくった。

 まだ私が読んでない記述がそこにはあった。カズヤ君の書いたものだった。


『ヨシノさんへ。結局、ヨシノさんは昨日、僕に会いに来てくれませんでしたね。僕の誘い方が少し強引だったのかもしれない。それは少し反省しています。冷静に考えれば、僕たちは会わないで正解だったのかもしれません。もしあそこで出会っていたら、僕とヨシノさんの関係が壊れてしまったかもしれないからです。ヨシノさんがそういう選択をしたことを僕は尊重したいと思います。』

 いつもとは違う改まった感じで、カズヤ君はそう書き始めていた。

『僕とヨシノさんが交信を始めてから、もう半年くらい経ちますね。僕自身すごく楽しかったし、この交信は僕の強い支えになりました。ばかっぽい話もたくさんしました。中身のない話ばかりして笑い転げていた気がします。しかし、ちょっとばかりいけないことかなと思うこともありました。僕やヨシノさんがこのノートに依存してしまうからです。このノートのせいで、他の人たちと話す機会を失ってしまうことが心配でした。僕と人付き合いにことについて話し合ったこともあったけど、あまり成果は上がらなくて、それはちょっぴり残念です。』

 ノートを握る手が、次第に強くなっていく気がした。胸の熱くなるものが、込み上げてきた。ぐっと体に力を入れて。余計なものがこぼれ落ちないように、私は自分を見張り続けた。

『僕はヨシノさんにもっと外を見て欲しいと思っていました。僕も偉そうなことを言えた口ではないですが……。だから、僕の押しつけを真に受けて、オレンジの鞄を買いに行った話を読んだときは驚くとともに嬉しかったりもしました。人が知らない人とお話しして楽しい感じというのは、ヨシノさんが知らないお店を冒険してお気に入りの鞄を見付ける感じにそっくりだと僕は思うんです。あの満足感がきっと、人との付き合い方のこつなのです。』

 本当に偉そうなことをカズヤ君は語った。なんとなく、私の顔から笑みがこぼれた。ノートを見付けたあの時を、懐かしむようなそんな笑みだった。

『僕は明日には転校して、この学校からいなくなってしまいます。僕とヨシノさんは二度とあの大学ノートで交信できなくなってしまいます。つまり、このへんてこな交信もお別れです。しかし、僕が前を向くと決めたのと同じように、どうかヨシノさんも前を向いて下さい。あのオレンジの鞄と一緒に世界を切り取り続けていて欲しいです。そして最後に――』

『僕とヨシノさんの、あの一番の思い出のかけらをノートに貼り付けておこうと思います。ちょっときざっぽいですが、最後くらいそういうことしてもいいよね。では、さようなら。今まで、本当に。ありがとう』

 カズヤ君はそんな風に最後を結んだ。「ありがとう」だなんて照れくさいこと、どうしてそんな真顔で書けるんですか。なんだかもう、この半年間の彼のすべての記述が恨めしかった。「あのきざやろうめー!」。私はそう口に出した。

 そのカズヤ君の最後の交信が、ちょうどあの古臭い『交信ノート』の最後のページだった。


 私はもう一度読み返して、目を瞑った。

 窓の方から入りこむ風が私の肌を優しく撫でた。深呼吸をすれば、いつものあの油絵の具の匂いが鼻の奥へ入ってくる。そう、これが、いつもの美術準備室の。いつもの『交信ノート』なのだ。そう考えると、目のあたりが水っぽくなって、私は鼻を啜った。そして、私はゆっくりと目を開いて、あの古臭い大学ノートに向き合った。


 そう。私は読み返して、あることに気付いていた。最後のページの一番下の空白に、なにやら長方形の染みみたいなのが薄くついていることだった。そして、カズヤ君の言う「あの一番の思い出のかけら」が何なのかも気になった。

 そこで私は気がついた。そして、私の仮説がどうやら正しいことを、このとき確信した。

 私は交信ノートを机の上に置いて、スカートのポケットをまさぐった。きっとまだ、私は持っていたはずだった。なくしたらいけないと思って、それをずっとスカートのポケットに保管してたはずだった。そう、それがきっと、すべての解答なのだ――。

 私は、初めて交信ノートを広げた時に落ちたあの切符を。6年前の8月17日と印字された切符を取り出した。

 そして、ノートのあの染みの上に載せてみた。

 切符の形が、ノートの染みにぴったりと符合したのだった。


 *


 カズヤ君のあの私との一番との思い出。きっと私が押し掛けたあの天体観測のことだろう。あの時の切符を、カズヤ君は取っておいて、思い出と考えて保管しておいたに違いない。そして、「あの一番の思い出のかけら」としてノートに貼り付けたのだ。

 しかし、それは今年ではなくて、6年前の8月17日の切符だった。

 ということは――。

 カズヤ君は私から見て6年前の高校一年生だった。

 そう、あの『交信ノート』は、惑星間交信と見せかけて、時空間交信ノートだったのだ。

 私は、自分と同じ時刻にいるカズヤ君と交信していると思っていたが、6年前のカズヤ君と交信していたのだ。そう考えれば、すべての説明がついた。ロッカーとか鞄とか、天文部がなくなっていたこととか、正門前の交差点にカズヤ君がいなかったこととか、細々した違和感と齟齬がすべて解消できた。すべてがすべて、理路整然と行くのである。

 もちろん、いくらほやほやしている私にも、それはにわかには信じがたいことだった。どんな仕組みでそんなこんがらがったことになっているのかはよく分からなかった。まさかこの古臭い大学ノートが「時をかけるノート」だったなんて、誰が信じるでしょうか。私が書いて、6年前のカズヤ君が書いて、そして不思議と会話が成立していたなんて、どうしてそんなことが信じられるでしょうか。それに、今からまた確かめようにも、カズヤ君はもういなかったし。ノートは最後のページまでいっぱいに埋まっているので、出来なかった。

 でも、その仮説を、私は信じることにした。

 6年の隔たりの中、私とカズヤ君が交信したと考えるのは、ちょっと素敵に思えたからだ。


 私はこの出来事を黙っていた。誰かに話したところで、信じてもらえないだろう。「ヨシノさんったらまた変なことを言ってる」。そんな風に思われるに違いなかった。それに、他の人に信じてもらえるかどうかは、もう私にはどうでもよかったのだ。

 きっと「さみしい」という電波を知らず知らずのうちに飛び交わせていた私とカズヤ君が、あの古臭い大学ノートに引き寄せられたのだ。時間の壁を越えて、私とカズヤ君はノートを通して出会った。古臭い大学ノートはああ見えて、そんなすごい力を秘めていたのだ。そして、「さみしさの周波数」というやつが偶然合ってしまって、私とカズヤ君は交信を始めてしまったのだ。私は、そう考えることにした。確か、そんな名前の本がどこかにあった気がする。


 それからのことを、少しだけ書いておこうと思う。

 私とカズヤ君の記述でいっぱいになった、あの古臭い交信ノートは私が家に持ち帰った。さみしくなったときにあれを握れば、耐えられる気がしたからだ。その代わりに、私は雑貨屋さんで新しいノートを買った。お気に入りのデザインのかわいい感じのノートを選んだ。そして、それを美術準備室の蔵書の棚の一番奥の隙間に挟んでおいた。

 もしかしたら、いつかまた私みたいな誰かがあの部屋にやってきて、誰かと交信を始めるかもしれないと思ったからだ。

 私とカズヤ君が交信したあのノートも、もしかしたらそんな風ないきさつがあったのかもしれない。


 それ以来、私は美術準備室に行かなくなった。

 もうあそこは、私には必要ない場所だったからだ。私はあのいかつい宇宙人たちと付き合っていくことに決めたのだ。笑われようが、血祭りにあげられようが、あの中で生きていくことを決意した。カズヤ君が最後に書いていたことを思い出す。『僕が前を向くと決めたのと同じように、どうかヨシノさんも前を向いて下さい。』。あのきざやろうがそう言うのなら、頑張ってみる価値はあるだろう。そんな風に思った。

 息が切れて窒息しそうになりながら、顔が真っ赤になってその場にぶっ倒れそうになりながら、私は宇宙人たちに話しかけ続けた。私が勝手に逃げようとするたびに、あの『交信ノート』を握り締めた。そうやって、人類は宇宙人との最初のコンタクトをとっていくのでした。

 不思議なことに、宇宙人だと思っていたクラスメイトたちは、私と同じ地球人であった。地球人は私とカズヤ君だけだと思っていたが、そうではないことに気付いた。そして、次第に私の周りに地球人が増えていった。私の中で、他の地球人と交信する秘密基地がどんどん増えていくのだった。


 *


 いい香りがする。

 ちゃっちい木の折りたたみ椅子に腰かけて、私は缶コーヒーを啜った。眠たい目をぐしぐしと擦る。窓の外からキャンパスの様子を覗いた。学生たちが忙しそうに制作に取り掛かっている。その誰もが顔を生き生きとさせていた。この、独特のわくわく感が好きだった。

 あのカズヤ君との交信から6年が経って、私は22歳になった。私が交信を始めた頃の、カズヤ君の実年齢になった。高校では絵の勉強を続けて、私は美大に進学した。カズヤ君の言う『僕が前を向くと決めたのと同じように、どうかヨシノさんも前を向いて下さい。』というやつを続けてやったのだ。そして、それは満足のいく成果を得ることが出来た。

 私もそろそろ大学祭の作品を完成させなければならなかった。徹夜続きの制作で、頭がパンクしそうになってしまって。こうして先生の研究室にお邪魔して目覚めのコーヒーを啜っている。人間、休憩も大事なんです。

 ふうと、息をつく。あの油絵の独特な香りが鼻孔を掠めた。この匂いをかぐと、ずっと昔の美術準備室のことを思い出す。それだけでなんか、くすぐったい感じがしてにやけてきた。

 私は缶を置いて、なんとなくついたテレビをぼんやりと眺めていた。お昼のバラエティっぽいニュース番組をやっていて、垂れ流される情報が私の頭を右から左に通過して行った。


『それでは、本日のゲストをご紹介致しましょう。今年の冬から国際宇宙ステーションで活躍される、宇宙飛行士の――』

 宇宙飛行士?

 なんとなく引っ掛かるワードが私の頭を通り過ぎて行った。「宇宙」なんてものにロマンを感じるのはお子ちゃまのすることで、私にはちっとも関係ないはずだった。そんなロマンやろう、私と友達になりたがったってお断りである。こんなワードに反応するなんて、私は寝不足で頭がへんになっているのだろうか。

 宇宙飛行士と紹介された男性がテレビ画面にドアップで映っていた。

 私はまた、変な感じがして首を傾げた。この顔、どこかで見たことがあるような気がした。遠い昔にどこかでさらっと見かけたような。テレビに映った男性の顔をじっと睨みながら、私は頭の中をまさぐった。そして、ピンと閃くものに辿りついた。

「これ、私が交信ノート拾った日に正門前でこけたあの時の……。私に声を掛けた大学生じゃない」

 つい独り言を呟いてしまった。なんという偶然だろう。まるで奇跡みたいな出来事だった。偶然あの時、あの交差点前を通ったあの人が宇宙飛行士だったなんて。私は大層驚いた。こんなこともあるのか。そう思った。声をかけられたあの時、サインを貰っていれば……。もったいないことをした。そんな俗っぽいことを考えた。

 その宇宙飛行士の男性は、アナウンサーにインタビューを受けていた。照れ屋さんらしく、恥ずかしそうに頭に手を当てながらとつとつとインタビューに答えていた。見覚えのあるその顔に、私の視線は釘付けだった。

『最後に、地球のみなさんに何か一言お願いします』
『一言ですか……?うーんと、そうですねー……』

 そう問われた男性は、上を向いて考えた。そして何かを思いついたのか、はにかんで笑って、テレビカメラに向かって恥ずかしそうに言った。


『エメラルドの宇宙人って見たことありますか』

 私は吹き出した。



おわり





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